モノが話すコトバのようなもの

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Canon EOS 5D・EF16-35mm f2.8L・f2.8・1/15・ISO400
写真は京都にあるカフェ「築地」です。こんな喫茶店、今では少なくなりました。
昭和9年に創業したこのお店は、今のオーナーが三代目。初代オーナーが趣味の品をすこしずつ集め、すべての店内装飾を造り上げてこられたんだとか。
お店はレトロで重厚な装飾によって包み込まれ、少し暗めの電球照明とクラシック音楽が流れ、とても落ち着いた雰囲気。このお店でコーヒーを飲みながら、ふと思ったことがあります。
優雅な内装や所狭しと置かれた装飾品が醸し出す、この濃厚な空気は、その「モノ」の作り手から伝わった話し声じゃないかって。
ふだん私たちは、さまざまな「モノ」に囲まれて暮らしています。そこに自分の身を置くとき伝わってくるもの。もちろんそれらは「モノ」だから話し掛けてきたりはしません。でも、「コトバに近いなにか」を発して、それによって気分がちがってきたりするのです。
芸術作品にしても工芸品にしても、あるいは工業製品も、人の周りのあらゆるモノたちは、作り手の何かしらの意思がはたらいて生まれてきました。作り手の気持ちや心は脳から手先に伝わり、「モノ」は設計されデザインされて。書かれて描かれて切られて削られて溶かされてくっつけられて。
そのとき、作り手は悩み苦しんで泣いていたかも。希望に弾み笑い叫んでいたかも。あるいは恋をしていたかも。
そんな想いの数々は「モノ」に影響を与え、「モノ」が人の手によって産みだされるかぎり、有形無形の「カタチ」となって残っていきます。
それはやがて、見るひと触れる人たちに、相似した感情を呼び起こすことになります。まるでレコードに刻まれた溝の起伏を針がなぞれば、そのままの音色が奏でられるように、「モノ」に宿った「コトバ」に近いなにかは、長い旅を経て私たちの気持ちへと届くのです。
いまどきに溢れる、利便性やコストを追求したインスタントな「モノ」たちは、さて、ちゃんと「コトバ」を伝えてくれているのでしょうか。